アメリカのメジャーリーグチーム・ドジャースへ移籍し現在も大活躍を続けている大谷翔平選手。
大谷翔平選手がドジャースへ移籍した入団会見でも名前が上がった生原昭宏さんをご存知でしょうか?
今では当たり前に日本人がメジャーリーグへ移籍していますが、そんなアメリカと日本の野球の交流の発展に貢献し日本野球界へ大きな影響を与えた人物である「生原昭宏」さん。
奇跡体験アンビリバボーでも取り上げられる、生原昭宏さんとは一体どんな人物なのか。
その経歴や日本野球界への功績などを調べてみました。
生原昭宏(アイク生原)のwikiプロフィール
- 名前:生原昭宏
- 読み方:いくはら あきひろ
- 愛称:アイク生原
- 生年月日:1937年1月20日
- 没年月日:1992年10月26日(55歳没)
- 出身地:福岡県田川郡香春町
- 職業:野球関係者、メジャーリーグ球団職員
生原昭宏さんは日米間の野球交流の発展に大きく貢献し日本の野球界に大きな影響を与えた人物です。
愛称とされている「アイク生原」と呼ばれる理由は、野球殿堂入りをした鈴木惣太郎さんから、「いくはら」の姓とアイゼンハワー元大統領の愛称にちなんで「アイク」と呼ばれるようになったからだそう。
また、肉を1切れ食べれば野菜をボウル1個分は食べたというほど健康に気を遣っていたそうです。
食事から何まで生涯野球に人生を捧げた人物ですね。
それでは、生原昭宏さんがどんな人物だったのか経歴を見ていきましょう。
生原昭宏の経歴!
日米間の野球交流発展に尽力し、親身になって野球留学生を世話するなどして、山本昌など、多くの野球人に慕われた人物です。
生原昭宏の経歴をざっとまとめるとこんな感じ。
- 野球部員から社会人野球で指導者に
- ドジャースの職員として働く
- 日本から来る選手へ熱心に指導
- 胃がんにより亡くなる
- 野球殿堂入りを果たす
学生時代~社会人野球へ
生原さんは福岡県立田川高校から早稲田大学に進学し、野球部の選手として活躍しました。
1959年にはリッカーミシンに入社し、社会人野球でその腕を振るいました。また、1961年には亜細亜大学硬式野球部の監督に就任し、チームを東都大学リーグ1部に昇格させるという成果を残しました。
ドジャースで用具係に
1965年、野球についてもっと深く学ぶためにアメリカに渡った生原さんは、ロサンゼルス・ドジャース傘下のスポケーン・インディアンスで用具係を務めました。
ユニホームの洗濯、靴磨きなどをこなしていたそう。
当初は英語が得意でなく、人種差別を受けることもありましたが、地道な努力と真面目な姿勢で信頼を勝ち取ります。やがてメジャー組織と球団経営を学び、アメリカ野球界で重要な役割を担うようになりました。
日本選手の指導も
ドジャースで働きながら、日本から野球留学生として選手が強化目的で来た際には、日本人選手の面倒を見る父親的存在としても知られるようになります。
1983年には村田兆治選手の右肘手術を整形外科医のフランク・ジョーブ博士に紹介するなど、選手たちを全力でサポートしました。また、山本昌選手や長嶋一茂選手をはじめ、多くの有名選手が生原さんに感謝しています。
山本昌さんは、半年間にわたり生原の下で野球留学したが、生原は山本に対し練習・試合・食事も一緒に献身的に指導していたため、山本が「いつ寝ているのか」と疑問に思うほどだったそう。
長嶋一茂さん「日本では教師からも腫物を触るように扱われていた自分を長嶋茂雄の息子ではなく長嶋一茂個人として初めて扱って指導してくれた人物」と話しています。
ちなみに、1990年1月(当時53歳)にはオーストラリアで開かれた中日の自主トレーニングに臨時コーチとして参加していましたが、その際に球場から宿舎のホテルまで十数キロの道のりを約1時間にわたり走って戻ったにも拘らず、全く息切れしておらず、選手やコーチたちが驚くほどだったそう。
胃がんにより死去
1992年、フロリダ州ベロビーチでの指導中に体調を崩した生原さんは胃がんと診断されました。
日本で手術を受けた後、アメリカに戻りさらに2度目の手術も受けましたが、10月26日に55歳で亡くなりました。
野球殿堂入り
生原さんの功績はその死後も高く評価され、1992年には日本野球機構から特別表彰を受け、1993年には、国際野球連盟が「アイク生原賞」を創設もしています。
2002年には特別表彰で野球殿堂入りを果たしました。
野球殿堂とは、日本のプロ野球などで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ、また野球の発展に大きく寄与した人物に対して送られるもので、いかに優れた功績を残したかがわかりますね。
野球界への貢献は計り知れないほど多かった
生原昭宏さんは、日米間の野球交流はもちろん、野球の国際的な普及にも尽力しました。彼の指導を受けた選手たちは、日本やアメリカで野球をさらに発展させるための大きな力となりました。
- 日本とアメリカの野球交流の発展
- 日本の選手を指導、アメリカでの技術的支援
- ドジャースのオーナーから「家族」と言われるほど関係になった
- 中国・ソビエト連邦などの国へも野球の普及に尽力
- 野球がオリンピック競技になった要因にもなり得るほど
国際野球連盟 (IBA) 会長のロバート・E・スミスさんは「野球のオリンピック正式競技採用にアイクが果たした役割は大きい」と話しています。
これだけ見ても、生原昭宏さんがどれだけ日本そして世界に野球の影響を与えたかが伝わってきますね。
アイク生原さんの名前は、これからも野球界で語り継がれることでしょう。